ホーム›五葉会春秋› 50周年, 五葉会春秋 › 五葉会創立50周年 記念講演会『私の人間形成』
石田和外
今日は五葉会主催講演会、五葉会創立してから50周年記念ということでごさいます。『一華五葉を開き、結果自然に成る』この言葉は私も非常に好きな言葉でして、いっしょうけんめいに真心をこめて真実一路にやるということだと思います。
(1) 鍛練の必要性
人間形成と鍛練,単なる理論だけでは,これをいくら積み重ねても本当のものとはなりません。必ず鍛練が伴わなければなりません。それで初めて自分の身につくのだと思います。私は何かひとかどの自宿のある人間であるかのような錯覚を与えますけれども、実は今もって未熟さを感じ,もう75歳半を過ぎても私としては何もつかんでいません。私は郷里は福井中学でございますが,その当時に出た同級生が時々会合をいたすわけでございますが、2・3年前、京都の東山のある料亭でクラス会を開きました。集まる者約30人。せっかく京都で、しかも東山で会をやったのだから舞妓さんの顔くらいは見ようではないかという希望が出まして、幹事が苦労しまして、30人に対してたった1人だけ舞妓さんを呼んできたのであります。ところが京都の舞妓さんというのは実によく訓練が出来ています。人間形成がある程度されておるのであります。その訓練の厳しさをしみじみと話してくれました。聞いているうちに、ついうっかり”卒業はいつするのか”と聞きましたら、その舞妓さんに厳しく ”芸事に卒業はありますか。一生が修行どす”と言われました。全くその通りなのです。
ところで、話は変わりますが、今から約90年位前になりましたか、ウイリアム・クラークという先生が札幌農学校に赴任して、約8カ月後にやめていかれる時に言われたのがあの有名な”Boys be ambitious, be ambitious not for money for selfish enthusiasm, not for that evanescent thing which men called fame, be ambitious for the attainment of all that a man ought to be ”です。クラーク先生が言われたのは、人間形成、人格完成へ向かっての努力ということを言いたかったのであろうと思います。その当事、札幌農学校には非常にりっぱな人が沢山いたのでありますが、中でも内村鑑三は名を知られています。彼はキリスト教信者ではありますが、ちょっと語弊があるかもしれませんが、今時のキリスト教信徒とは少し違って、本当の日本の国士としての精神を備え、日本人であることを少しも忘れていない方でありました。
(2)生きるとは
私の人間としてこのように生まれ、というよりは生んでもらって、今日まで生きているというよりは、皆さんのおかげで生かされています。そして、いわゆる、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬というものは実に寸分の狂いもなくやって来る。そこで、人間形成といっても、天地、我々が目に触れる森羅万象、目に見えないあらゆる微生物のすばらしい働き、その中のひとつの生き物として我々が生かされているわけでありますが、いったいそういうものの中で自分の中にある自分というのは何であろうかということを本当につかんでいないということから、禅その他宗教の生きる道があるのではないかと思うのです。我々は自然の中のひとつの存在であるにすぎないのでして、自然に随従して生きてゆくより仕方がないのではなかろうかと思うのです。生きているものは必ず死ぬのです。あなた方の年代は生とは少しも実感をもってお聞きとりになりませんが、本当にそうなので、しかも、時の立つのは実に早い。私なども昔から若い若いと言われてきたのですが、いつのまにか年をとってしまった、というのが実感です。
(3) 剣道 一修行の目ざすもの一
私は子供の頃から実は剣道で銀練をしてきました。今もって決して強くなっていないし達してもおりませんけれども、今だに続けているということ、これだけは今もって自慢ができるということでございます。剣道と申しますと”段は何段だ”と聞かれるのが普通になっていますが、私どもは、上がりました高等学校のある先輩に”何段は問題にするな。ただ自分を何らかの意味で鍛えるということでやれ”ということを実は言われました。私どもの仲間はひとりも段などもっていないのであります。そういうことを聞かれますと私は決まってこういう提示をいたします。「無一物中無尽蔵」(蘇東坡)。何もないというのはかえって無尽蔵を意味するのだということであります。
そこで自然剣道の話になってきましたけれども、剣道は日本だけに生まれて今に伝わってきているものでありますが、そのもとを言えば、いうまでもなく白刃と白刃とをもって相かまえた真剣勝負。これは死に直面した、していることでございます。切るか切られるか。今は木刀でございますが、やはり真剣をもってやったのと同じ気持でやらなければいけないというふうに、今も教えているのであります。ただ無茶苦茶にやったのではだめなので、これはお互いに間というのがありまして、これが非常に難しく、また虚実というのがありまして、相手が虚のところならば打っていけば当るのであります。それから、打った後とんで歩くようなことではいけないのであって、いつ何時かかられてもそれに応じられるだけの心構えが必要であるといわれております、どこまでも真剣。これが修行の目ざすところのひとつであるといえます。
日本も今や世界をリードしなければならない国になっています。外国人とも絶えず個人的にもつき合いをしなければなりませんが、現在のようなこのだらけきった日本人の心構えではとうてい世界に通用するものではありません。あくまでもそういう人間形成を目ざさなければならないのだと思います。
(4) 山岡鉃舟先生
そこで、ひとつ私自身のことよりも、そういう鍛練を重ねてりっぱな人間になられた人の例といたしまして、幕末から明治初年にかけての剣豪であった、また人材でありました山岡鉄舟という先生のことを少し話したいと思います。
山岡鉄舟先生は、子供時代は飛騨の高山で育ちまして、その頃から禅、剣道・書をやっておられました。これはずっと続けていかれまして、禅の社会、剣の社会、書の社会では、これはめったに出てこないという偉い人であります。ところが、ある時、小野派一刀流という流派の節範で、若狭藩の師範であった浅利又七郎義明という先生がおりまして、(鉄舟先生は有名な師範がいるとそこへ行って試合をしてきているのですが)浅利又郎先生の名を聞いてそこへ行って試合をしてもらう。そうしたらばどうしても打てない。向うの木刀の先が気になって進んでゆけない。はじめてのことでありました。それ以来,自分の剣道は修行が足りないと反省いたしまして、それからというのは実に苦労を重ねられた。そして、長い長い苦労をした結果、明治13年3月30日という日の明け方に、ついにあるものを得て、天下無敵という境地を開いたわけです。その時分、小野派一刀流というのは(だいたい剣道というのは自分が一番強いと思っているわけですが)自分が本当だ、いやおれが本当だということで争いがあったのに対し、鉄舟先生は、そういうことよりも、小野派一刀流はこうあるべきであるというひとつの工夫をされまして、それが無刀流の型となったのです。無刀流の剣道は自然の勝ちを得ることを要すということで、剣道で大切なものは、「理」と「技」であって、「理」「技」一致の心に到る、つまり、技と心とが一条にならなければいけないとします。そして無刀とは、相手と相対し、頭に寄らずして、心をもって相手の心を打ち負かすという原理であり、しかし、それは、人に教わっても身につくものではないのです。
(5) おもいやりの心
剣道はおもいやりであります。相手の気持ちがわからなくて何ができましょうか。
つまり、相対して、いつでも相手はいったい何を考えているのかということがわからなければ、これは、相手にある意味で負けてしまいます。私は、高等学校時代、相手の身になって考えてみるということを絶えずいわれました。
思いやりという点で、昔,細川忠興という大名がおりました。これは細川幽斎という人の子供で、後に熊本の藩主になった人であります。細川忠興という方は、お茶を嗜む人物であり、伊達政宗とはお茶をたてる間柄であったのですが、この人が年をとりましてから江戸から熊本へ帰るときに、ひとつのことを思いついたのです。というのは、紀州和歌山の藩主である徳川頼宣という大名の所に、義堂という有名な和尚の書がありまして(その義堂という和尚のお弟子が茶の元祖であり、お茶の方では、義堂の書というのは非常に珍重されている)、年をとって、また江戸へ出てこれるかどうかわからないから、せめて今生の思い出にその義堂の書を見たいと思いまして、細川忠興の家来の渡辺一学直綱という人にそのことを、義堂の書を見たいということを申し出たのであります。渡辺直綱が知人の頼宣公に、実はこういうわけで忠興が義堂の書を見たがっているからということを申し述べると,頼宣公
は、それはたやすいことだということで、まもなく茶会を開きました。そこで、細川忠興は喜んで茶会へ臨んだわけでございます。床の間を見るというと、自分が所望した義堂の書は掛かっていない、清拙という方の非常におめでたいものが床の間に飾られている。少しおかしいなとは思ったけれども,一応いろいろな話をして、それで、おかしいなと思いながら茶室を引き上げて行ったわけであります。書院の所へさしかかりますと,その書院の所に、渡辺直綱が威儀を正して上下袴で控えて”ちょっと申したいことがあります”と。”何でありますが”と言って自分もそこへ座った。”御所望の書はとこに持って来ております。しかし、頼宣公としては、もう今生の思い出にそれを見たいと言われる言葉に対して、それでは困るんだ。いつまでも生きながらえて江戸へ来ていただきたいという気持ちがあるから、その義堂の書は特に掛けないでおいたのです。もし御覧になりたければここに持ってきてありますから御覧になったらいかがですか”と。忠興はそういう頼宣のきわめてあたたかいおもいやりというものをそこで感じまして、涙を流さんばかりに喜んで、厚く礼を言い、”おことばのとおりまた出て参ります”と、そう言って、その書を見ないて帰ったという話があります。これは茶人の中ではひとつの有名な話になっているのでありますが。そういう奥床しい話があるというとをを申し上げまして、私の話を終わらせていただきたいと思います。どうも御静聴有難うございました。
(元最高裁判所長官) 一文責在記者-