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禅 一現代のための宗教一

2024.02.24 244

白田劫石

1.「正しさ」への反省

本年は、中央大学五葉会の創立五十周年に当る年であるが、わたしは、はじめにここでみなさんが、本学で五葉会が創立された本来の主旨は一体何であるかということを、その原点にさかのぼって反省してみる必要があるように思う。

その結論を一言にしていえば、それは「道」というもの、人間における「正しさ」というものの流通にあるといってよい。

現代の大多数の人々は、「道」ということを耳にすると、すぐにそれは現在のような高度の産業社会にはもう役に立たない旧時代の考え方だとするのが一般の傾向であり、諸君もその例にもれないと思う。

しかし一度、各人が自らの精神生活や、社会の状況というものを、真剣に反省し、又わが国がこれまで歩み来った歴史のあとや、これから歩む未来というものを考えるならば、誰もが現実が幾多の危機をはらんでおり、事態が容易ならさるものであることを認めざるをえないであろう。

現代人の生活は、経済を中心として営まれ、おびただしい情報とスピード化の中で、その一人一人が社会の組織・機構の一つの歯車としてどのようにうまく現実の生存競争に勝利をしめることができるかに関心が集められ、その余暇は無原則な享楽に当てられるのが実情である。

現在の社会の中で、われわれが現に見ている国家や民族間の紛争・企業競争・受験戦争等は、これを最も象徴的に示しているものである。それらは、ほとんどすべての人々の関心と精力を、その渦の中に巻きてみ、ものごとの本末始終を弁える暇を与えず,勝利のための戦術に狂奔せしめる。

そこでは、「正しい」道理というものが見失われ、人間の生活は本来如何にあるべきか、その第一義の意義は何であるか、ということについての本格的な反省というものは失われている。

しかしもし人間がいやしくも、ものごとの「正しい」道理というものを見失い、その営みの本末始終を明らめることがないまま歩みを進めるとすれば、如何にその経済生活が豊かで,その外形が華やかにみえようと、結局は、真実の人間としての楽しさや真の平和はつかみえず,終には自他を傷つけ自滅に陥るほかはないのは、歴然として明らかである。ものごとの道理の正しさは、人間の力や思惑を以てしては如何ともすべからざる事柄であり、時代の新旧や社会体制の相違や思想信条の如何を問わず、常に一貫してこれを昧ますことのできぬ法ということができる。

だから一人一人の個人の生活についてみても、家庭についてみても、社会国家のあり方についてみても、この道理に抗するということは絶対にできない、古来より、この道理は「道」と言われ、いろいろな人物によって、いろいろに表現されてきたが、それは時間空間をこえており、敷くことも昧ますこともできぬ天命ともいいえられ、人間は、それに如何なる力を以てしても一指もふれることはできないのである。

人間が、もし真の楽しさと平和を確立せんとおもうならば、どうしても道に目覚め,道を明らめ、道にもとづく人間としての「正しい」生活というものを樹立しなければならない。

現代人は、「道」というもの、「正しさ」というものをいまここで真剣に見直すべきである。

2.道を開示したひとびと

ところが、「道」というものは、このように歴然として昧ますことができないものであるにもかかわらず、これを明らめえない者には、その存在を示さない。あたかもそれは存在しないかのようである。それは、科学の真理のように、知覚や意識に訴えて実証することができない。

その理由については、後で述べるが、ここに「道」の問題の困難さがある。

さて人類の歴史は、政治・経済・文化の多領域に亘って多彩な業績をつくり上げてきたが、いま人間の精神というものに着目して、人類の精神史というものを繙いてみると、不思議なことに、紀元前4世紀を中心とする500年間に、地球上の各地に偉大な人物が現われて、現在世界宗教として流布されているいろいろの教えを開いたことが分るのである。

これらの教えは、その教義の内容やその修法において相違し、それぞれ特徴をもっているが、それらに共通していえることは、そのすべてが自分の身命財をなげうち、自分というものを捨てて、専一に「道」というものの開示とその流通に挺身した道心によって開示せられたものである。

それらは、一見、その内容を異にし、それぞれ対立しているようにみえるが、根本に遡って諦観すると、実は一なる道のいろいろの面をいろいろな形で示しているにすぎないことが明らかになる。だからそれらの教えは、究極においては、一なる「道」の開示としての意義をもっているといってよい。

つまりそれらは、その相対的な様相においては差別のすがたを現わしてはいるが、その根本に即してみれば、唯一無二の不生不滅の一貫した「道」のさまざまな表現なのである。

印度では、釈迦が出家して樹下石上で端坐六年、暁の明星を一見して如是法を悟り、衆生本来仏であることを明らかにして仏数を開示した。ユダヤでは、イエスが十字架にかかり、人間の情というものを越えた神の愛を示し、キリスト教を開示した。中国では、孔子や老子が、人間の相対的計らいや技術をこえた天命というものを開示し、孔子では、その天命が仁義礼智信という人倫の常径と相即不離なることを、また老子では、その天命が相対的な人間の意識を超絶する「常道」であり、名利を脱却しなければ得られないことを教えた。

またギリシャでは,ソクラテスが、アテナイの国が浄化されて正義が実現されるためには、一人一人の国民が己れの無知を自覚し、心を浄化し智慧の道を求めて哲学(愛智)につとめなければならないことを、死を賭け身を以て示した。

少し時期はおくれるが、マホメットがコーランにおいて回数の教えを開示したのも同様である。

これらの教えは、世界の各地の各民族に、人間が真に楽しく平和な世界を確立するためには、「正しい」智慧の眼を開き、愛の心をよみがえらせ、己れの名利をこえた「まこと」の道にもとづいて行為するように誘い、人間の心に希望と勇気とよろこびをもたらしたのである。

それらは、本来一なる「道」へ誘う教えであり、それ以外の何物でもないのである。

ところが、現実のすがたをみると、不幸なことにそれらの宗教は己れの宿仰や教義の絶対性を主張して、互に対立し抗争するという様相を呈示している。

これは、正に絶対というものの人間における相対化であり,道そのものの自己隠蔽でなければならない。

もし、「道」というものが唯一無二の相対を絶した真理そのものであるとすれば、どのように把握の仕方が異っていても、根本は一でなければならず、互に対立抗争の起る筈はない。対立のおこるのは、利書であって、道そのものではない。

あやまりは、すべての人間のさかしらのはからいにある。私心にある。

ともあれ、これらの教えによって開示された「道」は、人類の心に「正しく・楽しく・仲のよい」世界の建設への光をともした。

先に述べたように、人間の行為や生活の営みが、その外形において如何に豊かで英れてみえ、幸福で平和そうにみえても、もしそれが「道」に根ざしたものでないならば、それはほんものではないし、一時どんなに栄えたとしても、終には亡びゆく不幸なもの、「はかないもの」でしかないという事実は、人間の如何ともなしえざる所である。

その道理は、どのような国家,どのような社会集団、どのような家庭、どのような個人であろうと、否どのような思想信条や信仰であるうと、例外なく適用を受け、まことに厳しくまことに畏るべき法をふまえているというほかはない。

人生の眼目は、その「道」を正しく明らめ、その「道」を味わい、その「道」を弘めることによって真に人間らしい世界を建設ゆくところにある。

3.近代ヨーロッパの科学・技術

さてここで、われわれが生きている生活の基盤を現実的に形成せしめた近代ヨーロッパの科学・技術というものについて省みてみたい。

現代生活においては、永い歴史の過程を通じて形成せられてきた東洋の思想文化の伝統というものは,殆んどその影をひそめ、生活の全体系が近代ヨーロッパにおいて形成された科学・技術によって基本的に規定され、その精神生活においてもまた専らヨーロッパ的状況がみられるといってよい。

これは、わが国にのみみられるものではなく、世界的な現象である。

まことに現代という時代は、一言にしていえば、ヨーロッパにおいて発展した近代料学・技術というものによって合理化されたヨーロッパ的生活体制の営まれている時代であるといってよい。

国家における法体系も政治行政の組織も、又経済の生産・流通の価値体系や分業組織も、更には又学間研究における専門の細分化や計量化も、皆この近代的合理化の体系の表現である。

ヨーロッパの近代国家の体制は、いろいろな種類の革命によってもたらせられたものであるが、その基盤となっている思想は、人間はその人種・性別・階級・職業・思想信条の如何にかかわらず,一人一人皆平等で自由な人格を有するという民主主義の精神であり、そのような考え方は、近代科学が自然の諸現象を均質な分子・原子という単位の運動や量によって解釈し、又経済人がすべての価値を貨幣の単位の計量によって評価するのと、同一の基盤の上に立って成り立っているものといえるであろう。

このような料学・技術による合理化は、人間を、永い間束縛していた呪技的な迷蒙から解放し、身分や職業や性別にまつわるいわれなき差別から救い出し、独断的で不合理な愚昧の暗黒から明るい開かれた客観的予量の合理的世界に導き出したという点で、極めて大いなる功績をもち、それによって人類は驚くべき発展を示したのである。

それは、東洋の文化が果しえない領域の開拓を果したものといってよい。

東洋人が、近代以降その独善や前近代的停帯や迷蒙を打破りえたのも、正にそのお蔭といってよい。

このような科学・技術の価値は,過小評価されてはならないし、又それを否定するような逆もどりは許されない。

しかし同時にその反面、そこには又大きな欠陥というものも存在することも,認識されねばならない。

もともと近代科学による合理化は、その発展の過程の中で、人間を専門別に細分化し、業務を技術的に分割して単純化し、計量化するという基本的指向をもっている。

それは、仕事の内容を単純操作に化せしめることにより質を量に化し、また通信機関の開発によるおびただしい情報量とスピード化によって、生活のすみずみまでを合理化する力をもっている。技術のこのような傾向性は、人間を等質的に平均化し、その個性や人間らしい自然性や人格の自律性というものを失わしめ,他人志向の対他依存性を増大させて、一人一人の人間を機械の一歯車と化せしめ、その自己責任を喪失せしめる。

同時にまた古くからいわれる「群、象をなでる図」という譬えにみられるような事態を生ぜしめる。即ち、生来象をみたことのない盲人は、自分の触れている部分を以て象そのものと考え、象の全体というものを見ることができないが、丁度そのように、一つの専門に閉じてもってその技術にのみ携わる者は、「人間という存在」の全体を握みえず、自らの営みが全体系の中でどのような位置や意義をもつかを忘失してしまうのである。

法律家は、自らの利益をまもるために法律の条文をどのように解釈したらよいかに腐心し、法というものが本来何であり、その基本から法は如何に運営さるべきかという基本原理への反省を忘れる。

経済人は、企業の利潤の多くが如何に少い投資によってもたらされるかに関心を集中し、その企業のもつべき社会的役割や,経済的な富というものが究極に目指すべき価値が何であるかを忘れて、利潤の獲得そのものを自己目的とする。

学生は、己れの目指す試験に合格するためにどのように試験対策をし試験技術を身につけたらよいかに腐心し、そもそもいま自分の受けている教育や学問研究というものがもつ第一義の意義や、目的が何であり、それが如何に多くの人々に支えられたものであるかを忘れる。

そこでは、専ら互に敵対関係にある相手に対して如何にうまく競争をして勝利を収め自らの利得をうるかという戦術のみが工夫されるのである。

このような技術のための戦いは、現代人の殆んどすべての幼児から老人に至るまでの一生を通じて貫かれており、老後の定年退職による現実離脱は、社会から敗残以外の何ものも意味しないのである。

このような近代科学技術のもつ基本的エートスが、人間性を切り崩し、人間を「道」より離反せしめるものであることはいうまでもない。

それは、左右の社会体制の如何を問わず、個人においても社会においても破綻を生ぜしめ、非本来的な自己喪失に導き、人間をして無原理な快楽の暴走族たらしめる。

いまわれわれは、ここで立停って、われわれの生活の基盤である近代ヨーロッパの科学・技術と近代文化そのものの性格を見究め、その長所と欠陥を正しく把握し、真の正しい世界の形成のために何をなすべきかを、しずかに反省せねばならぬのである。

4. 見性悟道の行としての禅

わたしは、東洋の思想文化が西洋のそれに比して特に優れたものであるとは思わない。一得一失であって、それぞれの長所と短所とをもっている。

しかし、現代の社会が、当面している事態を考え、その欠陥を是正し、それを本来の人間らしい本道に戻すためには、東洋の思想文化が新たな歴史的役割を担うべきであり,ヨーロッパ文化自身の中からはその救出の道は生まれて来ないと考える者である。

それは何故であるかといえば、ヨーロッパの思想文化の根底には、身と心の二元論・唯心論と唯物論の対立という世界観的基礎が厳存し,その対立をヨーロッパ的地盤そのものの中で止揚することは、殆んど不可能であると思うからである。

東洋の精神史では、これに対して、身心一如・物心不二の道が拓かれ、和の基調が存在している。

それは、物心や陰陽や普悪・左右・上下・美醜等の価値の相対性を、その未だ生ぜさる以前の「ものそのもの」の世界としての「道」の本来性において開示し、それらのあらゆる差別の相を一貫する天命の表現とし位置づける。

老子のいう【物有り、混成す。天地に先立って生ず】の一物が、人間の差別・相対の生活に不二一如のすがたで現成するのである。

このような東洋の思想文化の中核をなす「道」というものは、幸か不幸か現在では、わが国のみに護持されてきて存在しており、他の国においては既に消滅してその影はみられない。

それらは、わが惟神の道や仏教・儒教などの教えの中に、体系的にその修法が示されるとともに、或は書道や茶道などの法として、或は古武士の精神や俳諧の道やその他多くの領域の芸道として日常の生活体験の中に具現されている。

われわれは、それらに接するときに、そこに磨き上げられた正しい人間の道とまことの心の香りと天地浩然の気を蔵する創造性を含むーなる道のはたらきを看取する。

それぞれの道は、その現われ方や味わいにおいて、異ってはいるが、その底を貫ぬくものは、一すじの道であって、それは人間の私心を離れ、生死をこえて、深いよろこびをもたらす不生不滅の天地のまことといってよい。

われわれは,惟神の道や仏教や儒教の偉大な人物には勿論,わび茶の千利休居士の「和敬清寂」のお点前にも、「古池」の旬で開眼した芭蕉翁の俳諧のわび・さびの中にも,葉隠れの武士道の中にも,その同じ一なる道の地下水をみるのである。

それらは、時代や領域や職業の相違の中にあって一なる道を求めそれを把握し、後世のためにその道統を残した人々の足跡である。

それは、いうなれば一般の人々が日常生活の中に埋没し己れを見失って、人生の帰趨を明らめえず生きているのに対して、或は偉れた人物との出遇いによって、或は又限界状況における深い反省を通して、目をさまされ、道を求め打ちこんだつるはしが、その尖端に不生の光の鉱脈を探り当て、本来の自分というものを開示した、その足跡なのである。

それらは、道の証しとして、道の文化財としての輝かしい光彩を歴史の中で放っている。

ただそれは,主客の相対を前提とする知識の視圏に現われる現象ではなく、正に主観と客観の相対を絶した「絶対無」乃至空においてのみ現成する絶対者であるがゆえに、主客相対を前提とするヨーロッパ的な科学や哲学の思考の前には、現前しないのである。

それを得るためには、いのちを投じて、修行に打ちこんで「三昧」に打入し、主客未分の世界に出なければならない。求道心に燃えたいのちがけの修行によらぬ限り,主客の対立は超剋されることはできない。

わたしは、敢てこのような主客の畦を絶ち切る修行を禅と名づける。

元来、禅というものは、一つの仏数の宗数の独専物ではない。

禅は、古来自らの宗門のために所依の経典や独自の教養や信仰を打ち建てて、門をかまえるということはない。無門の教えである。

そこには、教えるべき一法とてなく、つくり上げられた教えの一かけらもない。

禅でなさるべきことは、坐禅の行を通して、己れの正念をとり戻し、三昧に打入して、自他の畦を載断し、己れの本来の面目を徹見することである。それ以外の何物でもない。また従って、そこには、普通宗教というものが成立するための要件とされている所謂「霊魂の存在」や「死後の世界」などの形而上学的不合理性というものは些かも存在しない。

人間が、他の存在とは異った特別なエリートであり、異質な価値をもっていると考えることは、人間の思い上がりであり、自己中心のエゴに外ならない。

もし人間のいのちが尊厳であるならば、一匹の犬も、一本のぺんぺん草も同じく尊厳である。それらは、そのはたらきは異ってはいるが、等しくともに天地の根源的生命力である天命の現われであり、道の現われであり、価値の上での優劣はないのである。

従って禅には、殆んどすべての宗教のもつカリスマ的性格などは毛ほどもない。

如何なる人間でも,志をおこし、道を求めて、自律的に修行し、自らにいつわらず納得のゆくまで打込んで自らの骨折りによって道を得ることができる。そこに何の拘束も差別もない。まことに自由であり平等である。来る者は誰も拒むことなく、去る者は逐わない。

昔,念仏門の一遍上人は、自分の念仏の不徹底なるを自覚し、ほんものの念仏を行じうるために、由良の法灯国師に参じた。この参禅によって上人は、念仏三昧を得て時宗という念仏宗の道を拓いたのである。

一遍上人が参じたのは禅であっても、彼が得て広めたのはほんものの念仏であった。つまり、念仏者が禅に参じて真の念仏者になったのである。剣道家は、禅に参じて真の剣道家になる。

従って、現代のキリスト者が禅に参じて真のキリスト者となることもできる。

禅というものは、自らの宗門の枠を構えて何か一つのものを与えることはせず、人間が本来それであるところのものたらしめるものであるということは、この例でもよく分ると思う。

政治家は、禅に参じて真の政治家になり、教育者は、真の教育者になる。

このような禅の道は、一言にしていえば,達磨大師の「直指人心見性成仏」これをつづめて「見性」の道ということができる。

見性とは、「自分の性即ち本心本性を見る」ことであるが、「見る」ということは,「知る」とか「理解する」とは根本的に異っている。【如来は眼に仏性を見る】の見るである。

この「見性」が成就されるためには、普通自分と考えられている「我」の根源が尽され、その虚妄なることが看取され、「空」が証得されねばならぬ。

これを禅では,「大死一番 絶後に再蘇する」というが、布団上で小さな自分としての己れを殺し尽し、その極.道と不二になるのである。

老子は【道の道うべきは、常の道に非ず】といっているが、われわれが意識し知ることのできる道というものは、不生不滅の常道ではない、その幻影にすぎない。意識の根の絶し切った「空」においてのみ真の道は現われる。これが見性悟道である。ここに開示された人間の本心本性は、それ自身の中に「戒」と「定」と「慧」とを円かに具足している。このことを直証する見性は、だから即心是仏の実証であり、そこに「衆生本来仏なり」が証得される。

ただ禅では、この見性をただ個人の内証にとどめず、師家にその真偽の鑑別を乞う参禅弁道ということを行う。

師家という人は、己れのひとり免許でそのような証を与えるのではなく、更に自分の師の命によって資格を与えられそれをなすものである。

禅には法統というものがあって、仏の慧命を一器の水を一器に移すように、師家から師家へと伝法し,今日までそれが伝えられて来て、現にその慧命を伝える生きた人物が厳存し、その人が見性の真偽を鑑別をするというわけである。

そして、更に又その見性の境涯の浅深を鑑別するための幾多の法財というものも伝えられている。

これが、禅の宗教としてまことに卓越したところである。極端にいうならば、人間がどんなに仰をもち、徳を養い、事業をおこし、学問研究や教育に打ちこんでも,もし「見性」というものを真に果さぬ限り、天地の「道」に体達しえて、真に安心立命しえたということはできず、結局は、相対浮沈の境涯を免れえないといえよう。

だから「見性」ということは、一見すると禅という仏教宗派の独特の道のように見えるが、実はそうではなくて、すべての時代,すべて世界に開かれている真実の人間形成の不可欠の唯一の関門ということができる。これは、決して我田引水ではないのである。

5.現代のための宗教

さて、さきに述べた如く、近代料学技術の合理性を基礎として展開された現代が、中世の反理性への暗黒に逆転するのではなく、その科学性をふまえながら、その内蔵する矛盾や疎外を克服して、正しいその本来性を恢復し、正しい道を歩むためには、一定の信仰や教義の拘束を有ってとなく、カリスマ的派閥性を脱却して自由な自律性にもとづいて人間の本来性を開示することが必要である。そのため、正しい人間形成の行を通して見性悟道を保証するものが、禅なのである。

禅は、必ずや現代という時代に即応して、国々の特殊性をふまえながら、性別や職業や思想信条の相違のままのすがたにおいて、正しい人間形成や世界形成への道を拓くことを約束するのである。

従来禅の道は、僧侶の世界にその伝法が限られるという風習があったが,元来禅者というものは非僧非俗であって、その道は、仏教徒に限らずすべての真に志のある人に開かれねばならない。

そして禅の修行というものは、きびしい歴史的現実の只中において,社会の生産的な仕事に携わりながら、ヨーロッパの合理主義の道を否定することなく、それに正しい基盤と意義を与えることによって、それを本来のすがたに戻し、真の人間形成の道として現成せしむべきものでなければならない。

われわれは、それを人間形成の禅即ち人間禅と名づけている。それは、伝法に裏づけられた新たな居士禅・在家禅の道として、すべての人に開かれており、狭いーつの集団に限られるべきものではない。

正に、現代のための宗教こそは、人間形成の禅でなければならない。

このような禅の修行を通じて、現代の危機的状況下の人々は、ほんとうの人間らしい人間、ほんとうの日本人らしい日本人、ほんとうの父母らしい父母、ほんとうの学生らしい学生として自己形成をなし、「正しく・楽しく・仲のよい」世界形成に歩を進めるための道に立つことができるのである。          おわり

(人間禅教団総裁 千葉大学文理学部長)

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